新座市ってこんなところ
セレモメモリーのある新座市はどのような街なのでしょうか?
こちらのページでは、新座市の歴史や特徴、名所や地形についてなど、詳しくご紹介していきます。
新座市の面積は 22.78km2、人口は 2021年現在16万6千人です。
目次
新座市の歴史
新座市域には、旧石器時代から古墳時代にいたるまで両河川流域を中心に100ヶ所余りの遺跡があります。稲作農耕に代表される弥生時代には、両河川流域の沖積地が水田として拓かれて、周辺の新開遺跡では複数の方形周溝墓が発掘されました。古墳時代から奈良・平安へと時代が進むにつれ、河川流域全体に居住空間が広がり、ムラへと拡大していきます。
そのころ新座の周辺は、律令政治により先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわれました。天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、市域はその郡下に属しましたが、生産技術や生活文化の面で大きな影響を受けたものと考えられます。新羅郡はその後、新倉郡、さらに新座郡と名称を変えますが、新座市の名はその歴史的名称に由来するものです。
やがて、武蔵武士の台頭から片山郷の出身である片山氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて黒目川流域を中心に活躍します。一方、普光明寺や氷川神社を中心とする柳瀬川流域の大和田郷一帯にも文化の華がひらきはじめ、新座市域は、にわかに豊かな歴史的発展を始めました。
近世に入ると、江戸近郊地という政治的位置から川越・高崎藩領をはじめ、片山七騎などが知行した旗本領や、天領、平林寺領が入りくんで支配しました。なかでも川越藩主松平伊豆守信綱による野火止台地の開発や、それに伴う野火止用水の開削は有名です。江戸時代には開発によってできた村などを含め、新座市域には15の村が成立しました。これらの村々は幕末の変動を経て明治を迎えます。
明治8年(1875)4月、黒目川流域の片山10ヶ村は、合併して片山村となり、明治22年(1889)4月には町村制施行によって大和田町と野火止村ほか新田3ヶ村が、合併して大和田町になりました。その後、昭和30年(1955)3月には大和田町と片山村が合併して新座町が成立し、さらに昭和45年(1970)11月1日には新座市に市制を移行しました。そして、令和2年(2020)に市制施行50周年を迎えました。
新座市の駅といえば?
新座市に鉄道の駅は2つあります。一つはJR武蔵野線新座駅、もう一つは東武東上線志木駅です。
そう、志木駅は志木市ではなく新座市にあるんです。
志木駅の住所は「新座市東北」。出口によっては志木市側に出れるのですが、南口を出るとそこは新座市。さらに駅前にある志木駅南口交番は新座警察署管轄ですのでちょっと混乱しますね。
志木駅の駅名は、駅が開業した大正初期当時の所在地の自治体名の「志木町」に由来します。
元々は川越街道に沿い敷設されるはずだった鉄道が、廻船商人である井下田慶十郎や沿線の有力者が駅誘致を働きかけたことにより当初計画ルートが大幅に変更され志木町を経由する経路で敷設されました。当時の駅は現在より川越市寄りにあり、改札口は志木側(北口、現在の東口)にのみ設けられ「志木駅」と命名されました。
その後、新座町に立教新座高校が移転したことに合わせ新座側に南口が新設され、駅舎は池袋寄りに移設し所在地が足立町(志木町と宗岡村が合併して成立)から新座町に変わったというわけです。
もちろん志木市民が多く利用する志木駅ですが、新座市役所出張所の最寄り駅は志木駅であることから分かるように、多くの新座市民が志木駅を利用しています。
セレモメモリーの立地
新座市、志木市だけでなく、朝霞市、和光市の市民葬指定委託葬儀社として地域に根づいた葬儀社です。
またご身内だけの葬儀、家族葬ホールとしても弊社施設をご利用いただけます。